日本野球の歴史と、その時代の出来事
野球伝来のもう一つの考え方、クリケット
諸説ありますが、野球の前身はクリケットといわれています。そのクリケットが、野球伝来といわれる1872年以前に、日本に伝来していた可能性があります。そうなると、クリケットの伝来が野球の伝来ともいえる可能性が出てきました。
1863年は、日本の歴史もスポーツの歴史も動いた年
この年は、日本・アメリカ共に歴史が大きく動き始めました。また、日本で初めてクリケットの試合が行われた年でもあります。
1863年(文久3年) 日本初クリケットの試合が行われた年
日本クリケット協会によると1863年(文久3年)、初めて英国海軍と日本人との間で試合が行われたとされています。このように、海外からスポーツが伝来した時代ですが、日本はどのような情勢だったのでしょうか?
1863年(文久3年)の主な出来事。
- アメリカ大統領リンカーンが、奴隷解放宣言を布告
- イングランドサッカー協会創立
- 伊藤博文・井上薫らが品川のイギリス公使館を焼き討ち
- 新選組結成・長州奇兵隊結成
- 八・一八の政変
アメリカ大統領リンカーンが、奴隷解放宣言を布告
アメリカは南北戦争の最中でした。そしてこの年、リンカーン大統領が奴隷解放宣言を布告します。アメリカでは人として扱われていなかった黒人奴隷に、自由が与えられた年になりました。(とはいえ、現在に至るまで人種差別が続いておりますが)
イングランドサッカー協会創立
この年は「イングランドサッカー協会」が創立された年です。これによりサッカーのルールが統一化され、イギリスでサッカー人気が高まり、さらに世界へ広まったとされています。現在では、世界的に競技人口が多いスポーツとなりました。4年に1度のサッカーワールドカップを「武器を持たない戦争」という人もいる程、影響力のあるスポーツとなっています。
伊藤博文・井上薫らが品川のイギリス公使館を焼き討ち
長州藩の伊藤博文(当時は伊藤利助)や井上馨(いのうえ かおる:当時は井上聞多)が、品川に建設中だったイギリス公使館を焼き討ちしました。初代総理大臣伊藤博文と大蔵大臣井上薫は、実は放火事件の犯人だったという出来事です。当初は誰の仕業か不明でしたが、明治になって井上馨が告白して実行者が発覚しました。
明治維新の成功により、放火事件が武勇伝となりました。何とも呆れた出来事ですが、「勝てば官軍」とはよく言ったものです。
新選組結成・長州奇兵隊結成
この年、時代劇の定番である新選組や長州奇兵隊が結成されました。幕末最強の剣客集団である新選組と、新政府軍最強部隊と称された長州奇兵隊は、同じ年に誕生したのです。どちらの部隊も厳しい訓練や実戦を経験して強くなったはずです。それほどまで鍛えられた人々、平和な世の中であれば素晴らしいスポーツ選手となったことでしょう。
八・一八の政変
日本の歴史を大きく変えるきっかけとなった「八・一八の政変」が起こった年でもあります。公武合体派と呼ばれる派閥と、尊王攘夷派と呼ばれる派閥の政権争いでした。公武合体派の薩摩藩・会津藩が、尊王攘夷派の公家7人と長州藩士を京都から追放しました。ここから国内の覇権争いが激化、日本の歴史は大きく変わることになります。
動乱の時代に開催されたクリケット
この頃は日本だけでなく、アメリカ国内も混乱していた時代。そのような時代に、日本で初めてクリケットの試合が開催されました。日本を変えようとする人々が活躍する中、海外のスポーツを嗜む人々も存在したのですから、世の中分かりません。ひとついえるのは、それだけ海外の文化が入ってきた時代だったということでしょう。
生まれ育った地域や環境が違っていれば、新選組と奇兵隊のメンバーがクリケットで勝負していたかも知れません(笑)。